ぽんぽこ茶釜

30代おっさんのまったりブログ

脳梗塞

突然ですがあなたのお宅の食卓にはどんなものが並びますか?

育ち盛りのお子さんがいるご家庭では、食べ応えのあるものが多いのではないでしょうか?

私が育ち盛りと言われる年齢のころ、我が家の食卓はまさに”ザ・ご飯が進む!”といった感じでした。

今回は、私が育ち盛り。義務教育を受けていたころのちょっとした後悔の話です。

 

私の父は現在63歳。本来ならやっと定年を迎え今まで仕事に費やしてきた時間を、趣味や旅行に使い楽しんでいたはずの、第二の人生を楽しんでいたはずの年齢です。

しかし父は家を出ません、いわゆる引きこもりというやつです。

完璧に出ないわけではないですが、出たとしても病院ぐらいです。盆も正月も墓参りにすら行きません。とにかく人目を嫌い、かたくなに家から出ようとしないのです。

趣味だった釣りも、もう道具を捨ててしまいました。一緒に生活はしていますが、父は世捨て人のように何もしようとしませんし、喜びを表すこともほとんどありません。

 

なぜなら、できないからです。

 

父は、私が小学校6年生~中学生2年生の3年間の間に3度倒れました。

最初倒れた時は疲れがたまっていたのと寝不足が原因と診断されました。すぐに仕事にも復帰し元気に働いていました。

最初に倒れてから3年後、2度目の時には倒れる前から「最近頭が痛い」と言っていました。毎回同じ場所が痛んだそうです。

2度目に倒れた後もすぐに仕事に復帰してしまいました、母や私たち兄弟(私は3人兄弟の末っ子です)は「頑張りすぎ、ちゃんと検査しよう」と訴えましたが、住宅ローンがあったので休んでいられないと考えたのだと思います。

3度目はすぐにやってきました、仕事に復帰して1週間と経たずに倒れ救急車で運ばれたのです。

早朝のことでした、私はまだ寝ていてました。起きた時には兄が起きていて「父がまた倒れた、母は病院に付き添っている。俺たちも病院に行くから学校は休め、後で母が迎えに来るから一緒に病院に行くぞ。」と言われました。

 

再会した父は右半身マヒになっていました。

脳梗塞でマヒが消えることはないだろう。と言われたそうです。

 

昨日まで元気だった父が、何をしゃべっているのか聞き取れなかったのは今でも記憶に残っています。きっと、私はひどい顔をしていたことでしょう。中学生にもなって、自分の表情で相手がどれだけ傷つくかを忘れて、哀れみの表情を浮かべていたのですから。

 

たぶん、父も私の表情に気づいたと思います、それ以降人目を必要以上に気にするようになってしまいましたから。幼い人間の反応のほうが素直に感情を表す分、父を傷つけたのだと思います。

 

父は人目を気にするあまりリハビリに積極的に参加することができなかったようです、それ以前に自分が障害を負ったことを認めたくないようでした。

障がい者登録もせず、リハビリもせず、元々の医者嫌いが災いしたのもあるかもしれませんが、、、「自分は働ける」と言い仕事を探し続けていました。

 

しかしながら、世の中父が思っているほど甘いはずがありません。

障がい者を健常者と同じ条件で雇ってくれる企業など普通に考えてないでしょう。私たちとしてはリハビリを頑張ってほしかったのは言うまでもありませんが、病院に通いもせず仕事を探し続けていました。息子に向けられた哀れみの表情がそうさせたのかもしれません。

 

当然ですが仕事は見つからず、収入もなく、そんな状況で生活していけるわけもなく。

後で聞いた話ですが、貯金も底をつき親戚に借金をして回るような生活になっていたそうです。そんな状況に追い込まれて2年ほどそんな生活が続いたころ、やっと父は障がい者手当を受け取る決心をしました。

久しぶりに病院に行き、障がい者認定に必要な書類を貰うことになりました。そのとき母は医者から「リハビリを頑張ればマヒが軽くなり、社会復帰するケースもあるのに、なぜリハビリに連れてこなかったのか?」と怒られたそうです。

 

母は医者の”消えることがない”という言葉を早とちりしていたのでしょう、脳梗塞によるマヒは、完璧には治らなくても回復することはあるのです。それこそ、社会復帰できるほどに回復することもあるそうです。

そのとき医者からこうも言われたそうです「脳梗塞になると、感情をコントロールするのが難しくなる」はっきり言って、もっと早く言ってほしかった。知っていれば嫌がっても病院に連れてきていた!

しかし、父の意思を尊重し通院しなかったから、入院も嫌がり半日で帰ってきてしまったから説明を受ける時間がなかったのです。回復しないと思っていたのです。

後悔しても後の祭りですが、今でも、あの時1泊でもしていれば、通院だけでもしていれば、と母はこぼすことがあります。

 

結果、父のマヒは回復するどころか、筋力の衰えもあり当初よりひどくなってしまいました。障がい者手当を受け取れるようになり借金をする必要はなくなりましたが、借りたものは返さなくてはいけません。

住宅ローンもそうです、当然金利を付けた金額を返す必要があります。

上にも書きましたが我が家は住宅ローンがあり、今でも毎月支払ってます。

 

私が高校を卒業するころにはお金を新たに借りる必要はないが返済ができない、税金も払えていない。そんな状況でした。

それはつまり、借金が増えていっているのと何ら変わりない状況です。あと一歩で家を抵当に流されてしまう、そんなギリギリの状況の時に私は高校を卒業しました。

 

そんな状況でも高校を卒業させてくれた母には感謝しております、闇金などに手を出さないでくれたのも救いでした。

 

上に兄弟がいたのにここまで家計が悪化したのは、私たちを不安にさせまいと私が高校を卒業するまで家計のことは聞かされていなかったからです。

しかし、私が高校を卒業したことで、母が家計の状況を打ち明け、兄弟3人と母で協力することができるようになりました。私も当時の給料の7割以上を家計に入れていました。

 

周りの友人は、自分の給料を自由に使っているなか、7割以上を家計に入れる。しかも、薄々気づいていたとは言えいきなり聞いた話です。周りの友人と自分を比べ、「なんのために働いているのか?」「いつまでこんな環境が続くのか?」と思っていました。そんな気持ちが態度にも出ていたのでしょう。

 

そのころから父の様子が変わっていきました。

 

そのころの父の口癖は「俺が死ねばいいんだろ!」です。

 

 

 

私は否定できませんでした。

 

父が加入した住宅ローンが、本人が亡くなったとき生命保険で相殺できるタイプのものだったからです。

 

ひどい人間だと思われるでしょうが、その当時の我が家は本当に荒んでおり、否定しなかったどころか本気で父の氏を願ったこともあります。

 

そうなったのには理由があるのです。

私たち兄弟は、不満が溜まりそれが表に出ていました。言い訳にはなりませんが若かったせいもあると思います。

父はその原因は自分がした借金にあり、働けないことにあると思っていたのです。

そして、脳梗塞は感情のコントロールが難しくなります。当然、母や私たちにあたりました。私たち兄弟は当然のように反発しました。

 

そこから父が氏を願うようになるまでは、もう簡単に想像できるでしょう。

 

はっきり言って自分たちでもどうにもできない状況だったと思います。

 

 

ですが、現在は父が死にたいということはなくなりました。かといって前向きになったとは言いずらいですが、、、

荒んだ空気を一発で変えてくれた存在がいるのです。

 

その存在とは姪っ子です。

本当に氷が解けるように、冬が春になるように、空気が変わっていきました。

 

現在は残念ながら離婚し、父と姪が会うことはなくなってしまいました。

が、姪っ子と元奥様がいなかったら我が家から自殺者か殺人者が出ていたのではないかというぐらいの空気をぶち壊してくれたお二人には感謝しております。

 

 

さてさて、そろそろ長くなってきたので本題に。

最初に皆様の食卓事情をお聞きしたのは覚えておいででしょうか?

 

実は脳梗塞と食事には密接な関係があるそうです。

なぜそんなことを知っているか?というと、遺伝するのか気になってお医者様に聞いたことがあるのです。

 

その答えとして、「遺伝はしないが生活習慣が大きくかかわってくる、今までと同じ生活を続けると家族もなる可能性が高い」と言われました。

聞いた時は”母にはいえないな”と思ったものです。

 

皆様、偏った食事をしていませんか?外食ばかりしていませんか?

普段の食事で防げる不幸もありますよ!?

面倒なのはわかります。しかし、笑顔の食卓で笑顔の未来を作れるならば多少の手間など些細な問題ではないでしょうか?

 

我が家は少々手遅れかもしれませんが、この記事を読んでくれた皆様に、皆さまのご家庭に笑顔の食卓が続いていくことを祈っております。

 

長い記事を読んでくださりありがとうございました。